12月の「シネマDEトーク」が開かれました

蛍がいた!松竹座
市議会議場で恋愛映画上映も・・・

月1回の「シネマDEトーク」が、12月21日、IKEUCHIGATE6階の書肆吉成で行われました。今回のテーマは「映画館グラフィティーⅡ」。街並み画家の浦田久さんと和田由美理事が、札幌の象徴ともいえる映画館「松竹座」の思い出を語りました。

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「松竹座には蛍がいた」という浦田さんの話から始まりました。夏の風物詩ではなく、美しい女性が4人いて、足下を懐中電灯で照らし、映画館の闇の中を座席まで案内してくれたそうです。チップは当時のお金で5銭。蛍嬢を目当てに足を運ぶ人たちもいたほど。映画を観に行くために、女性たちは髪結いに行き、着飾って出かけるほどのステータスを持った劇場でした。

戦時中、日本最初のカラー映画「千人針」が上映されたのもこの劇場。浦田さんは胸弾ませて出かけましたが、映し出された画面は真っ赤。当時の日本ではネガから上映用のポジフィルムにする現像技術はなかったようです。
また、松竹座とすすきの交番の間に小路があって、小便横丁と呼ばれていました。上映中小用を我慢していた男性客が終了後、小路に駆け込むことがしばしばで、町内会も業を煮やし、稲荷を建てて防戦したというエピソードも。戦後は進駐軍の専用館となり、1947年に復活。その後、話題作を次々に上映、札幌のシンボル劇場として親しまれました。70年に惜しまれつつ閉館となりましたが、座り心地のいい椅子はJABB70ホール、シアターキノで活躍し、いまも滝川で現役だといいます。
札幌市職労時代、市議会議場で恋愛映画を上映した青年期、三吉神社の境内で野外映画を楽しんだ少年時代など、札幌の街並みと映画を愛した浦田さんならでは思い出話も披露してくれました。
これからの「シネマDEトーク」の予定は
1月18日(土)「映画居酒屋兆治の世界」
小田原賢治(北の映像ミュージアム副理事長)
2月15日(土)高村賢治(北の映像ミュージアム副館長)
3月21日(土)「みんなで語ろう。マイベスト映画」
※しばらくスタッフブログを更新しておりませんでしたことお詫び致します。今後は定期的に更新してまいります。

10月のシネマDEトーク「成瀬巳喜男監督 没後50年」終了しました

ミュージアム主催の「シネマDEトーク」

(毎月第3土曜午後2時、書肆吉成@IKEUCHI GATE6F)

10月19日は「成瀬巳喜男監督 没後50年」と題し、

北の映像ミュージアム副館長の高村賢治が

「温泉から成瀬作品を解く!」のテーマで語りました!

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年内の予定は下記の通りです。参加無料。ぜひ。

◆11月16日(土)「映画とテレビー放送から制作へ」
佐々木純(北の映像ミュージアム理事長)

◆12月21日(土)「映画館グラフィティーⅡ」
浦田久(街並み画家)×和田由美(エッセイスト)

シネマの風景フェス2019「コタンの口笛」上映会レポート〈後編〉来場者アンケート

9月28日、札幌プラザ2・5で開かれた
「シネマの風景フェス2019」。
「コタンの口笛」を上映し、佐々木利和先生のトークを行いました。

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レポート後編は、ご来場くださった方々からの感想の一部をご紹介します!
たくさんのメッセージ、どうもありがとうございました。

* * *

人間の心の中にある差別意識の悲しさを改めて思い知りました。よい映画を有難うございました。佐々木先生のトークで「キクとイサム」を思い出しました。(77歳女性)

小学生の時にみた映画で只一つだけ覚えていることが「あ、イヌ」だという言葉だけで、この映画だった事が確認できた。佐々木先生と同じ体験をしました。

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差別…昔も今も同じ形でまたは違う形でずっと続いている。佐々木先生のトークの最後の言葉、忘れないようにしていきたい。もう一度、この映画を見たいです。次回は夫婦そろって来たい!!(70歳女性)

もう見られない映画と思っていたので、上映していただいてよかったです。昭和30年代の千歳の風景、コタンの様子がわかり貴重でした。佐々木先生のお話もよかったです。

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勇気と人権を問う現在社会のテーマとなる不朽の問題作だった。アイヌ問題を深く考察させてくれた。(80代男性)

私が千歳中学時代の作品で、千歳川や蘭越墓地、白老など懐かしい風景に感動しました。(70代男性)

とても考えさせられる映画でした。今なお残っている差別に憤りと悲しさを感じました。(60代女性)

「コタンの口笛」©TOHO CO.,LTD.

「コタンの口笛」©TOHO CO.,LTD.

懐かしい気分になりました。(20代男性)

石森延男の作品―今更ながら「コタンの口笛」を読んでいるところです。当時がすーっと頭の中に広がり、生き生きと動き出してきます。それはタイムスリップというより、今の時代に尚問われていることばかりです。(50代女性)

当時のアイヌの生活が見れて良かった。今の時代に観れてよかった。(40代男性)

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60年前にこんなに良い映画が作られていたことに驚いた。東京生まれで育ったため、アイヌという言葉自体に触れることがなかったが、こちらに嫁いで35年近く経ち、最近アイヌ刺繍に興味を持ち、アイヌの文化の素晴らしさを感じ、もっと世界に広まればと思うようになった。今日は映画を通して差別のことも考えさせられましたが、もっとアイヌの人たちの智恵や文化が広まって、差別が無くなる世の中になればと思います。(60代女性)

シネマの風景フェス2019「コタンの口笛」上映会レポート〈前編〉佐々木利和先生トーク

9月28日、北の映像ミュージアム主催の上映会「シネマの風景フェス2019」が札幌プラザ2・5で開催されました。

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上映したのは、アイヌの姉弟が差別や偏見にめげず生きる姿を描く1959年の東宝映画「コタンの口笛」。

「コタンの口笛」©TOHO CO.,LTD.

「コタンの口笛」©TOHO CO.,LTD.

札幌出身の石森延男によるベストセラー児童文学の映画化。
巨匠・成瀬巳喜男監督が千歳や札幌、白老などでロケした珍しい作品で、音楽は「ゴジラ」で知られる北海道ゆかりの作曲家・伊福部昭が担当しました。

「コタンの口笛」©TOHO CO.,LTD.

「コタンの口笛」©TOHO CO.,LTD.

DVD化されておらず、滅多に見ることができないこと。
(貴重な35ミリフィルムで上映しました!)
また、来年4月の国立「民族共生象徴空間」(愛称・ウポポイ)オープン、「ゴールデンカムイ」などの漫画や演劇などでアイヌ文化への関心が高まっていることなどを背景に、多くの方にお越しいただきました。

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前売り券が早くに売り切れし、
当日券販売の判断が上映ギリギリになってしまい、
お待ちいただいた方も多く、ご迷惑をお掛けしました。
ご来場いただいた方々に深く感謝致します。

さて、当日は北海道大学客員教授でアイヌ文化のエキスパートでもある 佐々木利和先生のトークも行いました。素晴らしいお話でしたので、午前の部の内容をレポート致します!

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佐々木利和先生プロフィール
(1948年、陸別町生まれ。東京国立博物館名誉館員。2006年、国立民族学博物館先端人類科学研究部教授、2010年からは北海道大学アジア・先住民研究センター教授を経て、現在は北海道大学の客員教授。著書に「アイヌ文化誌ノート」「アイヌ絵史の研究」などのほか、執筆者として加わった本に亜璃西社「札幌の地名がわかる本」。)

* * *

佐々木利和先生/イアンカラプテ、皆さんこんにちは。さて、この「コタンの口笛」、実は今から60年前、私が中富良野小学校5年生のとき、学校の授業で観た記憶がございます。以来60年、目に触れることはありませんでした。それを今日、こうして目にでき、「こういう映画だったのか。こういう描写があったのか」、そういった思いで非常に懐かしく拝見しました。

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昭和30年代、中富良野は農村地帯で、おそらくアイヌの方々は存在していなかったのではないでしょうか。そういうところでも、富める者と貧しき者の差はものすごくありました。たまたま私の家は父がサラリーマンをしていた関係であまりなかったですが、クラスの3分の2はお百姓さん、農業をやっている人の子ども。当時は給食なんかありませんから、弁当を持ってこないお百姓の子どもがたくさんいました。お弁当の時間になると、みんなグラウンドに出て遊んでいます。そういった状況でした。

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「コタンの口笛」の少し前、昭和33年には内田吐夢監督の「森と湖のまつり」が公開されました。「コタンの口笛」の後には今井正監督の「キクとイサム」が上映されました。私は、こうした作品に強烈な印象を受けています。

実はこの頃、私は父を亡くしまして、稚内に移りました。「キクとイサム」は米兵と日本女性との間に生まれた“混血児”が出てきますが、実際、私が通い始めた稚内北小学校の下のクラスにもいて、強烈な印象を受けました。

「コタンの口笛」には色々な差別の問題が出てきますけれど、稚内で母と住んでいた市営住宅に、樺太から引き揚げてきたアイヌの家族がいたんですね。父親は身体障害者で母親はいなく、子どもが3人。稼ぎはお祖母ちゃんが加工場へ出面に行き、その費用で家族を養っていました。そのお祖母ちゃんと私の母が仲良くて、おかずの交換なんかをしていたんです。ある時、クラスメイトから「あそこのうちは…」という言い方をされて、「母さん、あのお婆ちゃんアイヌなんだってね」と言ったんです。その時、母から「あんたに関係することではないでしょう」とバシッと叱られました。それが、私のアイヌ体験です。

「コタンの口笛」©TOHO CO.,LTD.

「コタンの口笛」©TOHO CO.,LTD.

それから、3人いた兄弟の一番上のお姉さんは、中学を出てから働きに出ていました。あるとき帰省中に我が家に遊びに来ていて、「あんたたち、いいわね」って言って帰ったのも、覚えています。ものすごく印象的でした。アイヌ差別というのが厳然としてあったんです。

映画の冒頭、「あ、イヌ」というセリフが出てきます。アイヌの人達を貶める言葉です。これ、アイヌの人々にとってはものすごく屈辱的な描写だと思います。私はこのシーンが強烈に印象にあって、ずっと頭から離れませんでした。でも、悪い印象で覚えてないかという不安もあったんですけれど、今日映画を改めて見て私の印象は誤りじゃなかったと確認しました。

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また、映画の中でアイヌの人たちの劣等性、差別の根源を考えさせる描写もありました。たとえば、田口校長(志村喬)の息子とアイヌの女性のエピソードですが、やはり良識者でも自分の息子とアイヌの娘を結婚させることに抵抗があった。これはおそらく現在でもあります。アイヌの方々と話をすると、今も一番大きいのは結婚の問題なんです。それは、昭和30年代から変わっていません。

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「コタンの口笛」©TOHO CO.,LTD.

肝心なのは、アイヌの人たちに住んできたところに強引に入ってきたのはシャモ(和人)だったということ。そして、アイヌの人たちをこき使って大きな収益を上げた、江戸時代の場所請負制ですね。それから、明治になって開拓使ができ、「北海道」となってたくさんの移住者たちがやってきました。移住者とアイヌは、最初はそんなに悪い関係ではなかったという話もあります。しかし様々なアイヌ政策を見てますと、アイヌの人たちにとってプラスになったものはあったんだろうか…そのことを、我々は意識しなければなりません。

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それからもうひとつ。私はよく「1つの日本列島の中に、2つの国家があって、3つの文化が存在する」と言います。2つの国家とは、明治12年以前に存在した①天皇を核とする国家②琉球国王を核とする国家のこと。3つの文化とは、①アイヌ語を母語とするアイヌ文化②日本語を母語とする日本文化③琉球語を母語とする琉球文化、です。琉球文化は国の機関や県が積極的に紹介してきましたが、今日本はようやく、アイヌ文化に対して評価しようとしています。

私は別に映画そのものの良し悪しをいうわけではないのですけれども、映画全体から見る印象からいうと、この映画も、日本文化をベースにしてアイヌ文化を見ています。でも、文化というのは絶対に1つの尺度で見てはいけない、これが私の持論です。ですから、アイヌ文化をどのように見ていくか、ということも考えねばなりません。

おそらく、成瀬監督はいろいろな人の教えを受けたのでしょう。小道具はよくここまで集めたな、というほど非常に素晴らしいです。家の中にはアイヌの人々が使っていた道具類、敷物などが沢山出てきます。昭和30年代のアイヌ文化、生活を知るには大変有効な映画だと思います。

「コタンの口笛」©TOHO CO.,LTD.

「コタンの口笛」©TOHO CO.,LTD.

昭和30年代はちょうど北海道観光が増えた時期でもあります。映画に白老のアイヌコタンの状態が出ていました。あのシーンに、宮本エカシマトクという酋長が出ています。あの方は、私が小学6年生のとき、稚内北小学校の修学旅行で白老にも行き、お会いした方で印象にあります。

アイヌ民族を法律として初めて「先住民族」と明記した新たな法律「アイヌ施策推進法」が今年5月に施行され、来年4月には白老の「アイヌ民族博物館(ポロトコタン)」があった場所に「民族共生象徴空間(ウポポイ)」ができます。しかし、アイヌの政策に関してそれで十分かといえばそうではありません。たとえば、アイヌ語の問題が起きています。映画の冒頭、アイヌ音楽を伊福部昭さんがアレンジしたものが流れました。ああいうものを今、自然に歌える方がどれだけいるか。実際、「母親からアイヌ語の子守歌を聞いた記憶がない」という話を聞いたこともあります。

国連教育科学文化機関(ユネスコ)の調査によれば、日本ではアイヌ語が「最も危険な状態にある言語」と分類されました。それを、今度オープンする「ウポポイ」をベースに、アイヌ語を日本語の共通語に持っていくことをしなければなりません。確かに日本列島は日本語がベースにあります。でも、アイヌ語を話す人がいる、琉球語を話す人もいる。これを忘れちゃいいけません。

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お客様の中には、今日初めてご覧になられた方や、私のように60年ぶりにご覧になったような方がいると思います。映画から何を学び、シャモである我々はあの映画をどのように生かしていくのか。アイヌ文化を、アイヌ語をこれから先ずっと伝承していくために何をすべきでしょうか。また、人を差別するということ、見下すこと、1つの尺度でモノをみることの危険さを認識していただければと思います。

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そして願わくば、原作をお読みください。すると、かなり印象が違ってくると思います。そうすると、今日ご覧になった映画の素晴らしさもまた分かってきます。もしもう一回見る機会があるとすれば、背景の小道具などにもご注目いただきたい。この映画は、今だからこそ改めて見るべき作品。私たちがどうあるべきかを強く訴えてくる映画です。

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祝!ディノス限定復活!第1回シネマトーク「ディノス閉店に想う わたしのシネマグラフィティー」レポート

「ディノスシネマズHTB劇場」の話題を

昨日お伝えしたばかりですが(記事はこちら)、

祝!ディノス復活記念ということで、

6月15日に書肆吉成・丸ヨ池内GATE6F店で

開催されたミュージアム主催の新イベント

「第1回シネマトーク」の模様をご紹介します。

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テーマは「ディノス閉店に想う わたしのシネマグラフィティー」。

どうぞ!

* * *

街並み画家・浦田久さん(以下、浦田)/私は昭和3年に札幌に生まれ、まもなく92歳です。子どものころから活動写真が大好きで、たまたま近所に美登紀館、日活館がありまして、さらに母がめちゃくちゃ映画好きで、無声映画の時代から見ていました。とにかく無声映画は面白かった! 各館で館付きの弁士がいて、それぞれ語り方が違うんですね。それに憧れて、真似した覚えがあります。

和田由美理事(以下、和田)/私は小樽で生まれて、小学6年まで倶知安・羊蹄山の麓で育ったんですけれど、やはり父親が映画好きで、毎週私を映画館に連れて行ってくれました。だから社長シリーズから大映の母娘いじめから何でも見ていました。その後、札幌に引越し、立派な映画館があって本当に幸せな映画経験をした記憶があります。NPO法人「北の映像ミュージアム」の事務局長を担当し、雑文も書いていますけれど、本職は昨年創立30年を迎えた出版社・亜璃西社の代表を務めています。浦田さんには、亜璃西社から出した「ほっかいどう映画館グラフィティー」の絵を全部お願いしました。札幌市内ほとんどの映画館をご存じの彼でなければ、この本は作れませんでした。

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広報担当・新目七恵(以下、新目)/私は1982年に生まれ、帯広で育ちまして、十勝・函館の地域新聞社を経て、現在は札幌でフリーライターをしながら「北の映像ミュージアム」に携わっています。「ほっかいどう映画館グラフィティー」では、ゆかりのある帯広と函館、それに旭川の映画館を取材しました。 ディノスとは札幌に来てから9年間の付き合い。平成の最後と令和の初めしか通っていないんです。お二人に比べて期間は短いですが、ディノス愛なら誰にも負けないと思っています!

和田/それではまず、浦田さんに札劇の昔の話を伺えれば。

浦田/私たちの子供時代は、「札幌劇場」というと芝居小屋です。映画館じゃありません。芝居の合間に映画が上映される、そんな印象でした。だいたい、いつ通っても札劇の前には一座の登りが立っていましたね。

和田/札劇で見た思い出の映画は何でしょう。

浦田/戦前ですか? その頃はあまり記憶にないんです。映画専門になってからもイデオロギーのしっかりした小難しい映画が多かった記憶があります。後半に入ると、そんなこともなかったですけれど。

和田/そうですね、私が1970年代に見たのは「燃えよドラゴン」に「エクソシスト」。難しい映画というより、怪奇なB級映画をかけるところでした(笑)

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浦田/溝口健二の名作「浪華悲歌」と「祇園の姉妹」をセットで上映していましたね。

和田/私は最初に映画の自主上映会をやったのがスガイの劇場で、地下にあった「テアトロポニー」を金曜日の夜9時から借りて、ATG映画を上映しました。当時はDVDやビデオがなく、見逃した作品を見るには16mmフィルムを貸りて映写機で観なければならない時代。寺山修司監督の「田園に死す」や大島渚監督の「夏の妹」、洋画なら「野いちご」なんかを上映しました。その頃高校生で来ていたのが今は映画評論家として活躍する塩田時敏さんで、「僕はあそこでロマンポルノに出会わなければ人生変わっていた」と言うんですが、それは彼の勝手でしょ(笑)。あそこで観客として見た作品もたくさんあって、「ジョーズ」や「激突!」など話せば尽きませんが、色々な媒体で書いているので、今度は若い方に話してもらいましょう。

新目/私はDVDで何でも見直せる世代なんですけれど、リアルタイムで名作を見ていないというジレンマを抱えていました。けれど、スガイに通ったことで、今を生きる映画ファンで良かった!と思えるようになりました。それは、万人受けしなくても私が「本当に好きだな」「めちゃくちゃ面白いな」「愛おしいな」と思える作品にいくつも出会えたからです。また、映画の自主上映チラシを置いていたり、個人で作る映画マガジンを扱っていたり、映画館としてのゆるい雰囲気が心地良かった。敷居が低くて、間口が広かった印象があります。閉館したことが今もショックなのは、あそこが単に映画を見る場所ではなく、“心のオアシス”のような存在だったんだと思います。それは、以前から芝居をかけたり、和田さんたちの自主上映に協力的だったという姿勢が今も息づいているのではないかと思いました。

和田/なるほど。それでは話がつながりそうなので、浦田さんに札幌劇場と中央館の精神の違いを紹介いただきましょう。

浦田/札幌の狸小路界隈には、1丁目に帝国座、2丁目に中央館、そして札幌劇場、遊楽館が固まってありました。その中でも前進的な作品、中身の濃い面白い映画を上映したのが、札幌劇場です。特に記憶に残っているのは、「風と共に去りぬ」「ピカソ・天才の秘密」「燃えよドラゴン」「ジョーズ」「灰とダイヤモンド」「戦艦ポチョムキン」「黒騎士」「さすらい」「巴里の空の下セーヌは流れる」「エクソシスト」「僕のおじさん」…。おそらく興行的には冒険的なプログラムが組まれていて嬉かった。そういう意味では、異色の大型劇場だったと思います。

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新目/ディノスは最後に「閉店祭名作上映」という特別ラインナップをしたんです。23作品を週替わりで上映したんですが、その中に「燃えよドラゴン」と「ジョーズ」が入ってました! 私も1番スクリーンで「燃えよドラゴン」を見ました。おそらく今までの上映作品から選んだのでしょうけれど、2000年代の新しい作品が多く盛り込まれたことも素晴らしかった。個人的には「シング・ストリート 未来へのうた」が嬉しくて、すでに見ていましたが、若い観客と一緒に映画館で堪能し、また泣きました(笑)。新旧雑多なディノスらしいラインナップだったと思います。

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新目/最近では「カメラを止めるな!」のロングラン上映が記憶に新しいですね。私は満席の1番スクリーンで見て、見終わったら拍手が沸き、映画祭のような熱気に驚きました。それから絶対外せないのが、大ヒットインド映画「バーフバリ」!ディノスは閉館前に「もう一度見たかったな」アンケートを来場者に取っていて、1位はこの作品。「閉店祭名作上映」とは別に、急きょ単発上映をして盛り上がっていました。 ディノスの面白さは、ヒット作を上映して終わり、ではなく、その関連作品をフォローしてくれること。たとえば「バーフバリ」なら、その原点という「マガディーラ 勇者転生」という作品も上映していて、インド映画好きの私はもちろん足を運んだんですが(笑)、観終わった後、外のポスター前でニヤニヤしていたら、隣に高齢の男性が立っていて、思わず「ご覧になりました?」と声を掛けたら「インド映画、最高だね!」と笑い合った、なんて経験をしました。名前も知らない他人同士が、同じ暗闇で笑って泣いて、去っていく。本当に、映画館の良さを体感させてくれました。移転予定ということなので、ぜひ1日も早く再開して、ディノス精神で色々な作品を上映してほしいです。

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和田/スガイのユニークさは、あそこから映画人を輩出したことかもしれないですね。「シネマロキシー」「シネマ5」が一時期名画座だった時にいらしたのが蠍座の田中さんでした。もう一つ、浦田さんが出資された伝説的なミニシアター「ジャブ70ホール」を作ったのも、やはりスガイの元社員。それは80年代の札幌における映画史のエポックだったと思いますし、ジャブで育った人がコアな映画ファンになりました。

浦田/あれだけ長い歴史を持った劇場でしたが、映画館につきものの火事はなかったですね。

和田/そうですね、いち早く鉄筋コンクリートにしたせいかもしれませんけれど。

浦田/大抵の映画館は火事が起きるんです。でも札幌劇場は防災管理がしっかりしていて、最後まで天寿を全うしたという感じですね。

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和田/札幌は、シアターキノを除くとシネコンだけになっちゃう。190万人都市でこれしか映画館がないこととは寂しいことです。最近はヒット作も増え、映画人口も増えている。シネコンではない商業館が、見やすい場所にできるといいなと思います。

浦田/ぜひ札幌劇場の素晴らしいスピリッツを残してほしいですね。

和田/何でもやる精神というのでしょうか。映画に差はありません。好きな映画を観れる自由さは大事ですよね。

* * *

以上です。そんなディノスが9月4日から5日間限定復活!

ぜひHTBへ足をお運びください。

7月のシネマトークが北海道新聞で紹介!8月トークも終了

書肆吉成さんで月イチ開催している

ミュージアムのイベント「シネマトーク」。

7月の開催模様を20日、北海道新聞札幌面で

ご紹介いただきました。

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第3回となる8月17日には

加藤敦理事が登場し、

「映画で旅する駅」についてトーク。

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参加者10名を前に、

「鉄道員」「すずらん少女萌の物語」

「駅station」「起終点駅ターミナル」の

ロケ地となった駅などについて語りました。

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次回9月のシネマトークは「コタンの口笛」上映会のため休止。

10月19日(土)の予定です。お楽しみに!

第1回シネマトーク@書肆吉成無事終了しました!

6月15日、ミュージアム主催の新イベント

「第1回シネマトーク」が書肆吉成・

丸ヨ池内GATE6F店で開催されました。

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「ディノス閉店に想う わたしのシネマグラフィティー」

と題して街並み画家・浦田久さん、和田由美理事、

広報担当のわたし・新目が語りました。

20人を超えるお客様にお越しいただき、感謝感激です!

詳細レポートは後日。

どうぞお楽しみに!

なお、次回は7月20日(土)午後2時から。

ミュージアム理事で北海学園大の大石和久教授が

1年間のフランス・パリ研修について話します。

参加無料です。ぜひ!

ちなみに、6月21日(金)、書肆吉成さんでは

「第3回 無声映画を体験しよう!」が開催されます。

映画は「滝の白糸」(短縮版、1933年、溝口健二監督)。

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飯村宏美氏による活弁付き!

①15時 ②18時30分 の各回800円。こちらもぜひ!

予約・お問い合わせは書肆吉成(011-200-0098)へ。

最後のシネマ塾レポート「空の穴」

5月19日、このミュージアムで最後となる

「北のシネマ塾」が行われました。

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取り上げた作品は2001年の熊切和嘉監督、

帯広ロケ「空の穴」。

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トークを担当した安倍雄也理事は、

「まさか自分が最後を担当するとは思っていませんでした」

と緊張しつつ、作品への思いを紹介。

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学生時代に映画館で見たことを振り返り、

「見れば見るほど、噛めば噛むほど味の出る映画」と語りました。

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熊切監督の描く北海道について

「暗い閉塞感が漂っているよう。帯広出身の監督だからこそ

描ける雰囲気であり、風景ではないか」と説明。

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また、熊切監督と高校の同窓生だという知人に聞いた

秘話なども交え、貴重な監督の素顔を明かしました。

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さらに、出演者のコメントを取り上げ、

その後の活躍ぶりとして、自分の好きな作品を紹介。

「熊切監督をこれからも応援したい」と力強くまとめました。

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最後は、司会の佐々木純理事長とあいさつした安倍理事は、

「別な場所で次があれば、ぜひ『シムソンズ』を紹介したい」とも。

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ご参加くださった方々、ありがとうございました。

またいつか、お目にかかる日を楽しみにしています。

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今日は「北のシネマ塾」!「鶴は翔んでゆく」

ミュージアムの月イチトークイベント「北のシネマ塾」。

本日午後2時からは、

1957年のソ連映画「鶴は翔んでゆく」

(ミハイル・カラトーゾフ監督)をテーマに開催します!

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公開時のタイトルは「戦争と貞操」。

トークは映画研究家の高村賢治副館長!

入場無料、当日参加OK!

どうぞお越しください。

北のシネマ塾3月レポート!「網走番外地 大雪原の対決」

ミュージアムの月イチイベント「北のシネマ塾」。
3月17日には、「網走番外地 大雪原の対決」をテーマに、北海学園大教授の大石和久教授がトークを担当しました。

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会場には、30名を超す大勢のお客様!

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ありがとうございます。
実は、大石教授は研究のため、4月から一年間、フランスへ。
この日は、旅立つ前、最後のイベントとあって、一般参加者のほか、元教え子さんやミュージアムの理事たちも駆けつけました。

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映画「網走番外地 大雪原の対決」は、1966年度興行収入がベスト1の当時大人気作!  「荒唐無稽で奇妙な和製ウエスタンにみえますが、そういう映画ならではの清々しさがあります」と大石教授。

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そして、本作で描かれるバイオレンスは、北海道ロケ作品のひとつの傾向だと紹介し、「北海道は、どうしても〝辺境〟〝野蛮〟というイメージがあり、この映画の場合、文明の果てるところの原始の雪原、まさに番地すらない北の果てが、バイオレンスの舞台となりました。それは同時に、〝解放〟とも捉えることができます。実は、本当の暴力の主体は、権力側にあったのかも。それに対抗しうるのは、暴力しかなかったのでは…と考えることもできるのではないでしょうか」。

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また、本作が西部に見立てられた点も、北海道ロケ作品の重要な傾向とも。「熊の出る開墾地」「大草原の渡り鳥」「幸福の黄色いハンカチ」など〝見立ての系譜〟を挙げ、「『許されざる者』など、今も新作が作られていることが面白い」と指摘。

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見立てとは想像力。北海道は、今ここにはない異国へと、見る者のイマジネーションを喚起してきたのでは」と持論を展開し、「私に〝見立て〟という発想を与えてくれた作品のひとつが、この『網走番外地 大雪原の対決』です」と、本作への思いを熱く語りました。

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「網走番外地」シリーズという娯楽作品に、こんな深い読み解きが可能とは! わたしスタッフ・新目もびっくり。大学の講義をみっちり聞いたような、勉強になったひとときでした。

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ちなみに、映画の主な舞台は、道北のまち・士別。
ミュージアムの入口近くにある古い35ミリ映写機は、士別にあった映画館「テアトル銀映」から寄贈を受けたものです。その寄贈者のご家族も、イベントにご参加下さいました。

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というのも、実は劇中に、ゆかりの場所が登場していたそう! メイン舞台となる「クラブ『さいはて』」は、「テアトル銀映」の前身に当たる、移転前にあった映画館「国勢座」の外観が活用されたそう!  「3歳まで住んだ映画館で、僕にとっては非常に思い出深い映画なんです」と貴重な思い出をお話下さいました。

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これはまた嬉しい驚き!「網走番外地 大雪原の対決」は、ここミュージアムとも不思議な縁のある映画なのでした。

ということで、この日のイベントはこれにて終了。ご参加くださった方々、どうもありがとうございました。
大石先生、どうぞお元気で。
フランスのお土産話と映画の研究成果を、ここミュージアムでも発表いただける日を、楽しみにしています。

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