ルンタ風の馬に導かれて「チベットの心」を撮った

過日、ドキュメンタリー作家池谷薫監督の「ルンタ」試写会を見ました。自由を求めて中国の弾圧に抵抗するチベット族。もろに政治的状況を扱ったものかと、予測したが、政治的な問いかけではなく、チベットの心に迫ろうとする製作姿勢に感服しました。試写のあと、監督が語った言葉は、この作品を味わう際の道しるべになると思い、30分足らずのトークを以下に要約します。  映画は、ダライ・ラマ亡命政権のあるインド北部ダラムサラに長年滞在して、物心両面の支援を続ける中原一博さん(62)を案内役に、池谷監督ら撮影班が中国領内、チベット族居住地域に潜入。素顔のチベット人と向き合う。

映画「ルンタ」は札幌では11月28日(土)から12月4日(金)までの1週間、札幌狸小路6丁目のシアターキノで上映。(構成と文責・喜多義憲)

風の馬に導かれて「チベットの心」を撮った   池谷 薫

ルンタが描いているのは、対立の構図などではなく、「人間の尊厳とはなにか」ということ。「焼身抗議」は本編では127人と言ってますが。半年たって20人増え、いま148人になった。一番最近のものは9月27日。55歳の女性。

ぼくはルンタの中で焼身抗議の是非を問うつもりはないんです。焼身なんて一日も早くなくなってほしい。当たり前のことですよね。でもこの同じ地球上で焼身という、激烈な手段でしか、抵抗の意志を示すことができない人がいる。そのことは知らなければいけない。知らないことは罪だと僕は思う。

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自らを『灯明』にする

今、チベットでは平和的なデモですらできなくなっている。デモしてつかまって拷問で死ぬことがある。2008年以後、拷問死が100人以上と言われている。そういう中で他者を、だれをも傷つけなく自分の体を民族同胞のためにささげる。映画の中で何度も「自らを『灯明』とする」ということばが出てきた。

僕も、中原一博さんも「焼身自殺」という言葉を使わないようにしている。「焼身抗議」と言っている。それは、個人的な理由による自殺とは全く別のものだと考えたい。あくまでも抵抗の手段としてこれがあるんだと思っている。

それでも僕はいまだにわからない、なぜ焼身抗議がおきるのか。永遠にわからないとおもっている。でも分からないからといって、そこで思考停止しないでください。焼身の先にあるチベットの非暴力まで届いてほしい。感じてほしい。

焼身があったけど、それはテーマの入り口にすぎない。僕が最後にたどりついたのは非暴力ですよ。チベット人の非暴力。そこにはを利他、慈悲、思いやりがあふれている。そのチベットを知ってほしいと思っている。

DSCN2276試写会場の舞台から「ルンタ」を熱く語る池谷薫監督=札幌・サンピアザ劇場

 

中原さんと僕との再会は2008年。1989年にダライラマがノーベル平和賞受賞した時、特集を撮ってから19年ぶりの再会だった。2008年というのはチベットにとってとて大きな年だった。この年に北京オリンピックがあった。チベットの惨状を世界に知ってもらうチャンスだと捉えてラサのお坊さんたちが中心になって立ち上がった。チベットに自由をと。

それがチベット全土に飛び火して150か所くらいでデモが行われた。それに対して厳しい弾圧が加えられた。いま全土といったが、よく誤解される。チベットイコール、「チベット自治区」だと思っている人がいる。そうじゃない。自治区はあくまで中国が行政の単位として、区画わけをしただけで、自治区の周辺、四川省、雲南省、甘粛省、西海省の一部もチベット人が住む居住区、チベット文化圏といってもいい。全部合わせると中国の4分の1くらいになる。それくらい広大な土地にチベット人が住んでいる。

その150か所で抗議が起きた。その時の弾圧は無差別発砲を行った。ラサだけでも200人以上が殺されたといわれている。

中原さんはそこからブログを書き始める。ブロガーになる。2008年3月の騒乱。僕はブログを見て中原さんがまだダラムサラにいることを知った。すぐ会いに行った。その少し前、僕は 2006年に「蟻の兵隊」という作品を発表する。次はチベットを撮ると周りに宣言していた。それからチベット本土に3年ぐらいロケハンティングに通いました。

それでもなかなかテーマが決まってこない。というのは、ぼくらがチベット人をテーマにした映画を作ったら、映画に関わったチベット人が捕まってしまう。そのリスクをゼロにすることができなかった。

その時、中原さんがブログを書いた。それを見て僕が会いに行った。そのころは中原さんを撮ろうとはまだ思っていなかったんだ。なぜかというと、中原さんがチベットに入れるとは思っていないから。お尋ね者見たいな人だから(笑い)。

僕は2008年から3年つぶして、チベットのいろんなところに行った。そのころ立教(大学)で教えていて春夏に長い休暇があったから。一番よく行ったのは東チベットのカブ(?地名聞き取れず)だけど。どうやったら映画が作れるかを探す旅をした。

それから時が流れ2011年、東日本大震災の年に中原さんがチベットに入った。それをブログに上げた。だったら話は簡単だ。中原さんと一緒に映画を作る。中原さんと一緒にチベット本土を旅する映画を作ろうと思った。

最初に中原さんと映画を作ると決めた時、ダラムサラでつくる気はまったくなかった。どんないリスクがあっても本土にいかなければだめと思っていた。

ルンタの撮影は2013年12月から始まる。ダラムサラで元政治犯の証言を聞くところからはじめた。

政治犯の証言は、いい意味で私の(予想を)裏切った。だって、拷問を受けた聞き終わってちょっと清々しい気持ちにさせられたのだから。例えば、電気ショックの拷問を受けたという尼僧。「拷問を受けたけど、デモに行ったことを一度も後悔したことはない」という。「拷問を受けても、看守たちと互角に戦えたと思っている」と言った。「あの人たち(看守)もそれなりに大変なのよ」。そこまで言った。

24年間、監獄に入れられていたひげのおじいちゃん。なぜ耐えられたか、と聞いたら「中国にひどい目にあってるんじゃなくて、それぞれが積んだカルマ(業)のせいだ。だから自分が受けた苦しみを他人が受けないよう念じて耐えたんだ」と言っていた。これ聞いてスゴイ人たちだなあ、と思った。と同時に、チベット本土で撮るものがはっきり見えた気がした。彼らチベット人が命を賭けて守ろうとしているものを、本土に行って撮るんだと。それがチベット人のアイデンティーであったり文化だったりする。その文化が危機に瀕している。チベットでは遊牧さえなくなっていこうとしている。

命賭けて故郷を守る

それともう一つ彼らが命を賭けて守ろうとしているもの。これは前作「先祖になる」で陸前高田に通ったということと関わってくるんだが、それは「故郷(ふるさと)だと思った。

僕と中原さんがチベットに行く前に決めていたことがある。それはチベットに行ったら、チベット人に政治的な話は一切聞かない。理由は繰り返し言ってますが、もし僕らが拘束されて政治的な素材が出てきたら、それだけで彼らは5年か6年の刑を受ける。実際、一回公安に踏み込まれた。マチュ(?)という競馬大会があった街。公安職員だらけだった。

チベット人が大きなイベントをやると、公安なり部隊がやって来る。あれは示威行為、見せしめです。これでもか。深夜11時ごろ7人くらいが僕らのホテルに踏み込んできた。撮影を咎められたのでなく「外国人がきて、なにかうろうろしているぞ」、通報があった。パスポートのコピーを取られた。あそこで「中原、池谷」と検索されたら、アウトだった。ひょっとしたら、今も帰ってこられなかったかもしれない。こないだも中国でありましたね。スパイ容疑で挙げられたという。それは中原さんが「チベットに自由を」と叫ぶシーンを撮ったあとだった。

旅の後半はその素材を守るのが僕のいちばんの使命だった。ひょっとしたら泳がされていたのかもしれないと思った。パクろうと思えばどこでもパクれた。最後は出国する成都で検挙することもできる。正直にいえば最後まで怖かった。

DSCN2287中原一博さん=映画「ルンタ」の1シーン

 

中原さんって、いいでしょう?チョイワルオヤジで(笑い)。中原さんは建築家であって、ルンタプロジェクトを立ち上げ、ルンタハウスを作った。ブロガーでもある。30年以上チベットを支援し続けてきた人。もうひとつ、彼が仏教をほんとうにまじめに勉強した人なんですよ。

それだから本物、本物感がある。

「決心の力」を信念に

中原さんの優しさみたいなものを示すエピソードがある。ぼくらが最初に行ったのはチベット北東アムド地方、中国と境を接しているところ。焼身抗議が一番多いところです。「焼身回廊」みたいなところ。だからそこを選んで旅をするんです。そこはビザなしで入れるところ。もぐりこんだんだ。ビザ取ったら足がつく。観光客にまぎれて成都から旅を始める。中原さんはダラムサラから来る。

僕らは成都のゲストハウスで待ち合わせた。中原さんはスズメのひなを持って現れた。「まだ生きてるんだよ」。これから決死の旅をするというのに。合流後の最初の仕事はゲストハウスで、ひなのエサにするミミズを掘ることだった。そういうところが中原さんすてきだなあ、とガツンとやられてしまうんですね。

 

中原さんの故郷広島に行った時、広島で、なぜチベットを支援するようになったかを聞いた。「拷問を受けてトラウマを抱えた人が泣き叫ぶのを見て、絶対助けようと思った。そのとき決心した。『決心の力』だ」と中原さんは言った。「決心の力」。すごい言葉ですね。それをずっと信念として持ち続けている。それが中原一博ですね。その根底にあるのは広島でしょ。お母さん被爆者。お父さんはシベリア抑留をしている。僕も被爆二世。被爆二世の出演者と監督でもってつくった映画。最初から価値観を共有しているところがたくさんあった。

中原さんは日本の宝だと思う。ああいう人がいることを誇りに思っていいと思う。すごい人。いまはネパールの復興支援をやっている。チベット難民が入ったところはほとんど壊滅状態になった。彼は建築家ですから、「二度と倒れない学校をつくるんだ」と、図面引いている。

 

命はひとつ

チベット人は本来、おおらかで、明るい。歌っているか、お経唱えているか。ほんとは命をすごく大切にする。ヤク(注・チベットに住む毛の長い羊)をたべる。魚はあまりたべない。「命はひとつ」とチベット人はいう。ヤクは大きいから一頭殺せば沢山の人がその恵みにありつける。ところが魚は沢山殺さなければいけない。チベット人からすると。チリメンジャコとか、メンタイコは大量虐殺。ギャーッという。優しい人たちです。

 

「ルンタ」を見た人からの感想でいちばん嬉しいのは、「チベットに行きたくなった」と言ってもらえることでしす。「ルンタ」は前半と後半でガラっと変わる。前半は見るのがつらかったでしょう。ぎりぎりまで詰め込んだ。だからこそ、大草原を馬が疾駆するシーン、あの時、解放感を感じたはず。あの草原を単なる景色として見るんじゃなくて、チベット人の思いと心を見ているはずだからね。

IMG_20151030_0003-11辺10センチほどのお札は「ルンタ」チベット語で風(ルン)の馬(タ)。敬虔な仏教徒であるチベット人が、仏塔のある丘で祈りを込めて大空向けてたくさん撒くシーンが作品にも描かれている。札幌の試写会場で頂いた

後半はまさにルンタに導きかれて、映画がルンタに導かれていくというか・・・・。ツウという仏塔の前で中原さんは「ここで人が焼身した。ここに来たらわかるよ」と言った。ここからこっちは昔からのチベットの街だけど、(反対側の)こっちはもう中国人の海に飲み込まれているみたいだ。と中原さんがいったとき、花火が鳴った。

まさに「映画の神様が降りてきた」と思った。

そのあと、中原さんが手を合わせて去って行った向こうで、チベット人がルンタを空に向かって撒ていた。四分半の長回し。まさにルンタはいろんなものの象徴としてあった。

札幌にもチベット人が住んでいます。今日の試写会に来ていただいたラワン・ジャンパルさんは1959年にチベットから亡命してきた。このように「ルンタ」を全国で上映すると必ずチベットの人が来てくれる。「(映画を撮ってくれて)ありががとう」と言ってくれる。僕も中原さんもそれが嬉しくて。

ダラムサラ映画祭が11月にある、チベット人に見てもらいに行ってきます。

(10月28日、「ルンタ」札幌試写会あいさつから)

池谷薫監督「ルンタ」7月18日から公開

池谷薫監督の最新作ドキュメンタリー映画「ルンタ」が、7月18日の東京を皮切りに全国で公開されます。残念ながら今のところ、道内上映は決定していないようです。同作品の公式サイトには、「非暴力の闘いに込められたチベット人の心を描く衝撃のドキュメンタリー」とあります。
池谷監督は「蟻の兵隊」「延安の娘」「先祖になる」など時代を鋭く切り取る作品を世に送り続けています。以下は監督から北の映像ミュージアムに届いたメールです。
            ◆◇◆◇
拙作『ルンタ』の公開まで、いよいとあとひと月を切りました。
7月18日(土)より渋谷シアター・イメージフォーラムほか全国順次公開です。
チベット語で「風の馬」を意味する『ルンタ』。暴力の連鎖に世界が苦しみ問題解決の糸口さえ見出せない今、
徹底した非暴力の姿勢を貫くチベット人の誇り高き生き方を、一人でも多くの方にご覧いただきたいと願っています。
初日には主演の中原一博さんと僕が舞台挨拶させていただきます。
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本日は谷川俊太郎さんの素晴らしいコメントが入ったチラシを添付させいただきます。
情報の拡散にご協力願えれば幸いです。
また、イベントや集会などでチラシをお配り願える方は、必要枚数、送り先などを私にお知らせください。
それから大変恐縮ですが、ぜひ前売り券をお買い求めください。
劇場やプレイガイドの他、ネットでも下記からご購入いただけます。
もうひとつ嬉しいご報告があります。
戦後70年を記念して『蟻の兵隊』の再映も決まりました。
『ルンタ』と同じ7月18日より、こちらはポレポレ東中野にて2週間限定のモーニングショーです。
安保法案など、この国の将来を決める大事な局面に立つ今こそ、
戦争とは何か全身で訴えかけた元中国残留日本兵・奥村和一さんの雄姿をもう一度ご覧ください。
感謝を込めて
池谷 薫
映画『ルンタ』公式サイト http://lung-ta.net/#
映画『蟻の兵隊』公式サイト http://arinoheitai.com/
『ルンタ』劇場公開情報
東京:7/18より渋谷シアター・イメージフォーラム
名古屋:8月下旬より名古屋シネマテーク
大阪:8月下旬より第七藝術劇場
沖縄:8月、桜坂劇場
横浜:9/5より横浜ニューテアトル
神戸:9月、元町映画館
広島:9月、シネツイン
長野:9月、長野ロキシ―
新潟:9月、シネ・ウインド
金沢:9月、シネモンド
京都:京都シネマにて近日公開
岩手:盛岡中央映画劇場にて近日公開
静岡:浜松シネマイーラにて近日公開

池谷薫監督のドキュメンタリー作品「ルンタ」完成

ドキュメンタリー映画の池谷薫監督からメールが届きました。

ikeya池谷薫監督=2013年10月30日、北の映像ミュージアム来訪時

宿願だったチベット問題と向き合う映画をつくりました。タイトルは「ルンタ」。チベット語で「風の馬」を意味し、天を翔け、人々の願いを仏神のもとに届けると信じられています。現在チベットでは中国の圧政に対して自らに火を放ち抵抗を示す“焼身抗議”が後を絶ちません。暴力によるテロが世界を席巻する今、非暴力の闘いに込められたチベット人の心を、一人の日本人男性の視点を通じて描きました。公開は7月。渋谷シアター・イメージフォーラムほか全国順次ロードショーです。 昨日オフィシャルサイトがオープンしました。情報の拡散にご協力願えれば幸いです。http://lung-ta.net/  ぜひ予告篇をご覧ください。 http://lung-ta.net/trailer.html 1989年ダライ・ラマ14世のノーベル平和賞受賞をTBS「報道特集」で番組にして以来、僕にとってチベット問題の映画化は、長年の宿題でありつづけました。四半世紀の準備を重ねて完成した『ルンタ』を、今はただ世界の一人でも多くの人にご覧いただきたいと願っています。 「ルンタ」には幸運という意味もあるとか。焼身者がこれ以上増えず、チベットに一日も早く真の平和が訪れることを願ってやみません。 感謝を込めて

映画「ルンタ」監督池谷 薫(いけや・かおる)

品田雄吉という人-田中千世子監督製作DVDから

北の映像ミュージアムの案内係当番に出勤してみると、デスクに1枚のDVDパッケージが置かれていた。表に「Y.S. 彼の思い出」のタイトルと、昨年12月13日、肺がんのため他界した映画評論家品田雄吉さん(北海道・遠別町生まれ)の生前の素敵な笑顔。裏に、今年3月19日、東京で開かれた「お別れの会」出席へのお礼の文章がある。私たちNPOの仲間の一人が代表して出席し、いただいて帰ってきたのだろう。文章の末尾に「品田千世子」とある。映画評論家でドキュメンタリー分野の映画監督田中千世子さん、品田雄吉夫人である。

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DVDはわずか12分半。ナレーターが、品田さんの一人称で語るスタイル。北大時代に映画の魅力に憑りつかれ、評論家の道を歩むきっかけになったこと、大学時代、当時すでに高名だった淀川長治さんを講演に招き、札幌駅からタクシーに同乗したことを、後年、淀川さんが憶えていてくれたことなどを語る。

後半に、こんな字幕があった。

2014年12月13日午前11時16分、呼吸が止まる

私は私と訣れた。

写真 2

衝撃を受けた。死ぬことは他の人々との訣(わか)れであると同時に自分との別れでもある、ということか。

これに続きこんなナレーション。

もちろん、家族や親族の関係が大事だ、という感覚もあるが、おれはたった一人の人間だよ、という感覚もある。アナーキーかもしれないが、北海道にはそういう人間が多いんじゃないかな。

評論家という仕事は孤独で、根源的にはたった一人ですべてに立ち向かっていかなければならないのだ、とご自分に言いきかせて歩んでこられたのだろう。

品田雄吉さんの生き方は、映画評論の仲間あるいはライバルであり、品田評論の対象となる映像作家であり、私生活での同志、伴侶である千世子さんがいちばんよくご存じなのだろう。

北海道には寡黙で他人に頼らず、ひとりコツコツと努力する人が多いーたしかに、他国者(大阪生まれの大阪育ち)の筆者もそんな気がする。

田中千世子さんが2月、ゆうばり国際ファンタスティック映画祭に招かれて夕張を訪れた合間を縫って北の映像ミュージアムに来られた。その時、撮っておられた映像がこのDVDに挿入されている。

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品田雄吉さんには、NPOの特別顧問をしていただき、まだミュージアムが実現しない苦しい時期から励ましていただいたことなどを思い出す。

DVDの中で、品田さんは中央での評論活動が長く、故郷北海道へのかかわりが、晩年になってゆうばり映画祭再興への支援というかたちで自然に生まれたことを喜んでおられた。ふるさと北海道へのかかわり、という意味では私たち北の映像ミュージアムもまた、品田さんの息遣いを感じさせる場所でもある、とDVDをみながら考えた。

この場を借りてあらためて故人のご冥福を祈ります。

(この項文責・喜多義憲)

元気な北海道映画業界-名刺交換会にて

きょう、札幌パークホテルで開かれた「北海道映画人名刺交換会」に行ってきました。当NPO法人「北の映像ミュージアム」佐々木純理事長の代理で。元気な北海道映画業界の一端をうかがうことができました。

わたし、映像ミュージアム活動に10年余関わっているとはいえ、映画業界に友人知人が多いわけではなく、会場に入ってびっくり。こんなたくさん映画関係者が北海道にいたのか。

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「これからも北海道から映画をどんどん発信していきたい」と抱負を語る鈴井亜由美・オフィスCUE社長

主催の北海道興行生活衛生同業組合の熊谷正志理事長についで、来賓3人があいさつ。なかでも2番目に立ったオフィスCUEの鈴井亜由美社長(プロデューサー)のスピーチがよかった。

オフィスCUEは言わずと知れた、大泉洋らを擁するいま道内随一の元気印プロダクション、というよりもうナショナルブランドというべき存在。最近では洞爺湖を舞台にした映画「しあわせのパン」も鈴井社長の企画。

あいさつの中で鈴井さんは「今秋公開の『ぶどうのなみだ』をはじめ、これからも北海道発の作品を送り出していきたい。映画とともに北海道産品を全国に紹介していきたい」。いいねえ。あいさつのなかでいちばん大きな拍手を受けていました。

スピーチを終えた鈴井さんと名刺を交換。私は初対面だが、NPOの事務局長を引き受けてくれている、エッセイスト和田由美さんや、ミュージアムの働き者新目七恵さんとは旧知の間柄だそう。「北の映像ミュージアムとしても引き続き、微力ながら北海道の映画文化発展に尽くしたい」と申し上げておきました。

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最北の映画館「T・ジョイ稚内」の藤田会長(右)と高橋社長

フロアでは、昨年末だったか、朝日新聞の連載「ほっかいどう映画館グラフィティー」で取材した「T・ジョイ稚内」を経営する最北シネマの高橋一平(かずひら)社長とも再会。高橋さんと二人三脚で最北端の映画館を盛りたてる会長の藤田幸洋会長を紹介していただきました。

高橋さんに「映画館の調子はどうですか」と聞くと「おかげさまで『アナと雪の女王』のヒットで成績が伸びています」と笑顔がほころぶ。そういえば取材したとき、「アニメは家族ぐるみで来館するから入りがよくなります。アニメのヒットがほしい」と高橋さんが言っていたのを思い出します。

 

このほか、近くにいた初対面の人たちとも名刺を交換、勤め人時代の「新年交礼会」をちょっと思い出しました。

最近では熊切和嘉監督(帯広出身)の「私の男」(ロケ地・紋別など)がモスクワ国際映画祭の最優秀作品賞と最優秀男優賞(浅野忠信)を受賞など、北海道の映画、北海道映画人はますます元気がよい。「北の映像ミュージアム」としてもうれしい限りです。(この項文責 喜多義憲)

 

 

 

 

おめでとう!札幌映画サークル50周年

12月7日、札幌映画サークルの創立50周年記念イベントにちょっと参加してきました。狸小路5丁目の札幌プラザ2.5で朝9時半から夜8時まで盛りだくさんのプログラムでした。このうち将来の映像アーティストめざしてがんばる道内の若者たちの短編映画を7本観賞。さらに高畑勲監督のドキュメンタリー作品「柳川掘割物語」を見たあと監督のトークを聞きました。

IMG_5997短編映画8本を上映したあと、ステージに勢ぞろいする若手映像人たち

短編映画は札幌映画サークルが立ちあげた「さっぽろクリエーター育成プロジェクト」(Sapporo Creator Upbringing Project=SCUP)で育った人たちの作品8本が無料上映されました。キタが午前10時前に入館したときすでに1本目の「末永とも子シリーズ」が終わっており、見たのは2本目の「凪(な)ぎさ」の途中から。

正直いって、作品のレベルはまだまだ「映画」といえるだけの域に達していないものが多かった。撮影技術、演出、演技の3つのポイントからは「愚怒猛仁愚(グッドモーニングとよむらしい)、ヤンキー」(杉山りょう監督)がよかった。プロの俳優さんを使ったのはこの作品だけかな?

でも、映像づくりに賭けた情熱はどの作品からも伝わってきた。この分野の育成に力を貸す札幌映画サークルの度量に敬意を表したい。

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高畑勲監督(右)と森啓・教授との対談

午後1時からの「柳川掘割物語」は立ち見が出るほどの盛況。アニメのトップランナーを走る高畑勲監督唯一の実写作品(1987年)。水郷柳川(福岡県)の復活を撮った渾身のドキュメンタリー。宮崎駿さんとタッグを組んで世に送り出しました。キタは初めて見ましたが、素晴らしいものでした。

上映のあと、自治体学の専門家、森啓・元北大教授と高畑監督の対談がありました。

同サークルの25周年イベントでも上映したというが、民と官が協力して地域の宝を再生していくプロセスを丁寧に記録した作品は時代を経ても古びることのない訴求力を持っていました。

高畑監督は1935年生まれ今年78歳。ステージで見た姿は髪も黒々と若々しい。現在、ロードショー中の同監督のアニメ作品「かぐや姫の物語」のPRも忘れず、まだまだ元気いっぱい。72歳の盟友宮崎駿の引退宣言についても、微妙な発言をしておられました。

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50年の歩みを伝えるパネル、山田洋次監督ら映画人が残した色紙をロビーに展示

 

それにしても、札幌映画サークルの創立50周年。ただただ頭が下がる思いです。われら「北の映像ミュージアム」はNPO創立から10年、ミュージアム開館からまだ2年。北海道の映像文化を守っていくために見習っていくことがたくさんあります。

「想像の扉を開こう」崔洋一監督が北海学園大で講演

「月はどっちに出ている」、「血と骨」などで知られる崔洋一監督が28日、「映画と地域づくり」と題して北海学園大(札幌市豊平区)で特別講演しました。

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崔監督は10年以上前から、胆振管内穂別町(現むかわ町)で高齢者映画作りを指導しています。講演では穂別の人たちとの出会いから、映画づくり支援に至るプロセスを語りました。

崔監督は旧穂別町からマザーフォレスト大賞を受け、その懇親会で「おらたちにも映画創れるべか」と聞かれ、「ああ、つくれるとも、やってみなさいよ」といったやり取りから始まった高齢者の映画製作。戦前・戦後を通じ穂別町で生きる夫婦の姿を描いた第1作第1作「田んぼ de ミュージカル」(2003年)が完成する過程で、お年寄りたちは「想像の扉」をひらき、自己を確立し、どんどんと元気になり、変化していったといいます。

また、映画作りのプロセスを楽しむだけでなく、あくまで優れた作品に仕上げるよう励ましたといいます。そして、映画を作っている途中では死なないーこの二つの目標を一言で表わして「棺桶よりカンヌ(映画祭のこと)」を合言葉にしたといいます。

穂別の高齢者たちは崔監督とかかわったこの11年間ですでに4作のミュージカル映画を生み出し、いま5作目に取り組んでいます。崔監督は日本の動脈や静脈を支える、こうした地方の個性豊かな、細胞や毛細血管のような活動を大切にしなければいけないと提言しました。

北海学園大学開発研究所・同大経済学会の主催。キャンパス内の5号館教室で開かれた講演会には学生のほか映画愛好家らが熱心に聴講しました。

崔洋一監督は日本映画監督協会理事長。長野県佐久市出身、64歳。

(この項、文責喜多義憲)