過日、ドキュメンタリー作家池谷薫監督の「ルンタ」試写会を見ました。自由を求めて中国の弾圧に抵抗するチベット族。もろに政治的状況を扱ったものかと、予測したが、政治的な問いかけではなく、チベットの心に迫ろうとする製作姿勢に感服しました。試写のあと、監督が語った言葉は、この作品を味わう際の道しるべになると思い、30分足らずのトークを以下に要約します。 映画は、ダライ・ラマ亡命政権のあるインド北部ダラムサラに長年滞在して、物心両面の支援を続ける中原一博さん(62)を案内役に、池谷監督ら撮影班が中国領内、チベット族居住地域に潜入。素顔のチベット人と向き合う。
映画「ルンタ」は札幌では11月28日(土)から12月4日(金)までの1週間、札幌狸小路6丁目のシアターキノで上映。(構成と文責・喜多義憲)
風の馬に導かれて「チベットの心」を撮った 池谷 薫
ルンタが描いているのは、対立の構図などではなく、「人間の尊厳とはなにか」ということ。「焼身抗議」は本編では127人と言ってますが。半年たって20人増え、いま148人になった。一番最近のものは9月27日。55歳の女性。
ぼくはルンタの中で焼身抗議の是非を問うつもりはないんです。焼身なんて一日も早くなくなってほしい。当たり前のことですよね。でもこの同じ地球上で焼身という、激烈な手段でしか、抵抗の意志を示すことができない人がいる。そのことは知らなければいけない。知らないことは罪だと僕は思う。
自らを『灯明』にする
今、チベットでは平和的なデモですらできなくなっている。デモしてつかまって拷問で死ぬことがある。2008年以後、拷問死が100人以上と言われている。そういう中で他者を、だれをも傷つけなく自分の体を民族同胞のためにささげる。映画の中で何度も「自らを『灯明』とする」ということばが出てきた。
僕も、中原一博さんも「焼身自殺」という言葉を使わないようにしている。「焼身抗議」と言っている。それは、個人的な理由による自殺とは全く別のものだと考えたい。あくまでも抵抗の手段としてこれがあるんだと思っている。
それでも僕はいまだにわからない、なぜ焼身抗議がおきるのか。永遠にわからないとおもっている。でも分からないからといって、そこで思考停止しないでください。焼身の先にあるチベットの非暴力まで届いてほしい。感じてほしい。
焼身があったけど、それはテーマの入り口にすぎない。僕が最後にたどりついたのは非暴力ですよ。チベット人の非暴力。そこにはを利他、慈悲、思いやりがあふれている。そのチベットを知ってほしいと思っている。
◀試写会場の舞台から「ルンタ」を熱く語る池谷薫監督=札幌・サンピアザ劇場
中原さんと僕との再会は2008年。1989年にダライラマがノーベル平和賞受賞した時、特集を撮ってから19年ぶりの再会だった。2008年というのはチベットにとってとて大きな年だった。この年に北京オリンピックがあった。チベットの惨状を世界に知ってもらうチャンスだと捉えてラサのお坊さんたちが中心になって立ち上がった。チベットに自由をと。
それがチベット全土に飛び火して150か所くらいでデモが行われた。それに対して厳しい弾圧が加えられた。いま全土といったが、よく誤解される。チベットイコール、「チベット自治区」だと思っている人がいる。そうじゃない。自治区はあくまで中国が行政の単位として、区画わけをしただけで、自治区の周辺、四川省、雲南省、甘粛省、西海省の一部もチベット人が住む居住区、チベット文化圏といってもいい。全部合わせると中国の4分の1くらいになる。それくらい広大な土地にチベット人が住んでいる。
その150か所で抗議が起きた。その時の弾圧は無差別発砲を行った。ラサだけでも200人以上が殺されたといわれている。
中原さんはそこからブログを書き始める。ブロガーになる。2008年3月の騒乱。僕はブログを見て中原さんがまだダラムサラにいることを知った。すぐ会いに行った。その少し前、僕は 2006年に「蟻の兵隊」という作品を発表する。次はチベットを撮ると周りに宣言していた。それからチベット本土に3年ぐらいロケハンティングに通いました。
それでもなかなかテーマが決まってこない。というのは、ぼくらがチベット人をテーマにした映画を作ったら、映画に関わったチベット人が捕まってしまう。そのリスクをゼロにすることができなかった。
その時、中原さんがブログを書いた。それを見て僕が会いに行った。そのころは中原さんを撮ろうとはまだ思っていなかったんだ。なぜかというと、中原さんがチベットに入れるとは思っていないから。お尋ね者見たいな人だから(笑い)。
僕は2008年から3年つぶして、チベットのいろんなところに行った。そのころ立教(大学)で教えていて春夏に長い休暇があったから。一番よく行ったのは東チベットのカブ(?地名聞き取れず)だけど。どうやったら映画が作れるかを探す旅をした。
それから時が流れ2011年、東日本大震災の年に中原さんがチベットに入った。それをブログに上げた。だったら話は簡単だ。中原さんと一緒に映画を作る。中原さんと一緒にチベット本土を旅する映画を作ろうと思った。
最初に中原さんと映画を作ると決めた時、ダラムサラでつくる気はまったくなかった。どんないリスクがあっても本土にいかなければだめと思っていた。
ルンタの撮影は2013年12月から始まる。ダラムサラで元政治犯の証言を聞くところからはじめた。
政治犯の証言は、いい意味で私の(予想を)裏切った。だって、拷問を受けた聞き終わってちょっと清々しい気持ちにさせられたのだから。例えば、電気ショックの拷問を受けたという尼僧。「拷問を受けたけど、デモに行ったことを一度も後悔したことはない」という。「拷問を受けても、看守たちと互角に戦えたと思っている」と言った。「あの人たち(看守)もそれなりに大変なのよ」。そこまで言った。
24年間、監獄に入れられていたひげのおじいちゃん。なぜ耐えられたか、と聞いたら「中国にひどい目にあってるんじゃなくて、それぞれが積んだカルマ(業)のせいだ。だから自分が受けた苦しみを他人が受けないよう念じて耐えたんだ」と言っていた。これ聞いてスゴイ人たちだなあ、と思った。と同時に、チベット本土で撮るものがはっきり見えた気がした。彼らチベット人が命を賭けて守ろうとしているものを、本土に行って撮るんだと。それがチベット人のアイデンティーであったり文化だったりする。その文化が危機に瀕している。チベットでは遊牧さえなくなっていこうとしている。
命賭けて故郷を守る
それともう一つ彼らが命を賭けて守ろうとしているもの。これは前作「先祖になる」で陸前高田に通ったということと関わってくるんだが、それは「故郷(ふるさと)だと思った。
僕と中原さんがチベットに行く前に決めていたことがある。それはチベットに行ったら、チベット人に政治的な話は一切聞かない。理由は繰り返し言ってますが、もし僕らが拘束されて政治的な素材が出てきたら、それだけで彼らは5年か6年の刑を受ける。実際、一回公安に踏み込まれた。マチュ(?)という競馬大会があった街。公安職員だらけだった。
チベット人が大きなイベントをやると、公安なり部隊がやって来る。あれは示威行為、見せしめです。これでもか。深夜11時ごろ7人くらいが僕らのホテルに踏み込んできた。撮影を咎められたのでなく「外国人がきて、なにかうろうろしているぞ」、通報があった。パスポートのコピーを取られた。あそこで「中原、池谷」と検索されたら、アウトだった。ひょっとしたら、今も帰ってこられなかったかもしれない。こないだも中国でありましたね。スパイ容疑で挙げられたという。それは中原さんが「チベットに自由を」と叫ぶシーンを撮ったあとだった。
旅の後半はその素材を守るのが僕のいちばんの使命だった。ひょっとしたら泳がされていたのかもしれないと思った。パクろうと思えばどこでもパクれた。最後は出国する成都で検挙することもできる。正直にいえば最後まで怖かった。
中原さんって、いいでしょう?チョイワルオヤジで(笑い)。中原さんは建築家であって、ルンタプロジェクトを立ち上げ、ルンタハウスを作った。ブロガーでもある。30年以上チベットを支援し続けてきた人。もうひとつ、彼が仏教をほんとうにまじめに勉強した人なんですよ。
それだから本物、本物感がある。
「決心の力」を信念に
中原さんの優しさみたいなものを示すエピソードがある。ぼくらが最初に行ったのはチベット北東アムド地方、中国と境を接しているところ。焼身抗議が一番多いところです。「焼身回廊」みたいなところ。だからそこを選んで旅をするんです。そこはビザなしで入れるところ。もぐりこんだんだ。ビザ取ったら足がつく。観光客にまぎれて成都から旅を始める。中原さんはダラムサラから来る。
僕らは成都のゲストハウスで待ち合わせた。中原さんはスズメのひなを持って現れた。「まだ生きてるんだよ」。これから決死の旅をするというのに。合流後の最初の仕事はゲストハウスで、ひなのエサにするミミズを掘ることだった。そういうところが中原さんすてきだなあ、とガツンとやられてしまうんですね。
中原さんの故郷広島に行った時、広島で、なぜチベットを支援するようになったかを聞いた。「拷問を受けてトラウマを抱えた人が泣き叫ぶのを見て、絶対助けようと思った。そのとき決心した。『決心の力』だ」と中原さんは言った。「決心の力」。すごい言葉ですね。それをずっと信念として持ち続けている。それが中原一博ですね。その根底にあるのは広島でしょ。お母さん被爆者。お父さんはシベリア抑留をしている。僕も被爆二世。被爆二世の出演者と監督でもってつくった映画。最初から価値観を共有しているところがたくさんあった。
中原さんは日本の宝だと思う。ああいう人がいることを誇りに思っていいと思う。すごい人。いまはネパールの復興支援をやっている。チベット難民が入ったところはほとんど壊滅状態になった。彼は建築家ですから、「二度と倒れない学校をつくるんだ」と、図面引いている。
命はひとつ
チベット人は本来、おおらかで、明るい。歌っているか、お経唱えているか。ほんとは命をすごく大切にする。ヤク(注・チベットに住む毛の長い羊)をたべる。魚はあまりたべない。「命はひとつ」とチベット人はいう。ヤクは大きいから一頭殺せば沢山の人がその恵みにありつける。ところが魚は沢山殺さなければいけない。チベット人からすると。チリメンジャコとか、メンタイコは大量虐殺。ギャーッという。優しい人たちです。
「ルンタ」を見た人からの感想でいちばん嬉しいのは、「チベットに行きたくなった」と言ってもらえることでしす。「ルンタ」は前半と後半でガラっと変わる。前半は見るのがつらかったでしょう。ぎりぎりまで詰め込んだ。だからこそ、大草原を馬が疾駆するシーン、あの時、解放感を感じたはず。あの草原を単なる景色として見るんじゃなくて、チベット人の思いと心を見ているはずだからね。
◀1辺10センチほどのお札は「ルンタ」チベット語で風(ルン)の馬(タ)。敬虔な仏教徒であるチベット人が、仏塔のある丘で祈りを込めて大空向けてたくさん撒くシーンが作品にも描かれている。札幌の試写会場で頂いた
後半はまさにルンタに導きかれて、映画がルンタに導かれていくというか・・・・。ツウという仏塔の前で中原さんは「ここで人が焼身した。ここに来たらわかるよ」と言った。ここからこっちは昔からのチベットの街だけど、(反対側の)こっちはもう中国人の海に飲み込まれているみたいだ。と中原さんがいったとき、花火が鳴った。
まさに「映画の神様が降りてきた」と思った。
そのあと、中原さんが手を合わせて去って行った向こうで、チベット人がルンタを空に向かって撒ていた。四分半の長回し。まさにルンタはいろんなものの象徴としてあった。
札幌にもチベット人が住んでいます。今日の試写会に来ていただいたラワン・ジャンパルさんは1959年にチベットから亡命してきた。このように「ルンタ」を全国で上映すると必ずチベットの人が来てくれる。「(映画を撮ってくれて)ありががとう」と言ってくれる。僕も中原さんもそれが嬉しくて。
ダラムサラ映画祭が11月にある、チベット人に見てもらいに行ってきます。
(10月28日、「ルンタ」札幌試写会あいさつから)