9月1~7日に行われた
ミュージアム開館一周年記念上映会
「シネマの風景フェスティバル2012」
本日は、映画評論家・品田雄吉さんにつづく
ゲストトークレポート第2弾!
「雪に願うこと」の根岸吉太郎監督と
プロデューサーの田辺順子さんのお話をご紹介します。
司会進行は、お二人と交流のある和田由美事務局長です。
客席に座ったつもりで、どうぞお楽しみください。
(以下、敬称略)
* * *
和田/この狸小路の映画館(札幌プラザ2・5)は、昔、「日活館」という名前だったんですね。その後、「東宝プラザ」になりましたけれど。実は、(東宝プラザの)谷井社長は日活にお勤めになっていらしたんです。それから、根岸吉太郎監督は、日活の撮影所出身。奇しくも、今年は日活創立100周年ということで、不思議な縁を感じます。東映劇場、松竹遊楽館、東宝公楽劇場など、札幌市内では多くの劇場が姿を消し、商業館として建物が残っているのはここだけ。ですから今日は、違う意味で記念すべき日といえると思います。 さて、根岸監督は27歳で日活でデビューされましたが、まずは、なぜ映画監督を目指したか、伺ってよろしいでしょうか。
根岸/もちろん、映画が子どもの頃から好きだったんですね。中学生の時にさんざん映画を観て、映画の雑誌も一生懸命読んでいました。淀川長治さんの「映画の友」とか、「スクリーン」とか。ある日、ハリウッドの監督が映っている写真を見て、「俳優もいいけれど、監督も格好いいな」と思いました。たたずまいがいいな、と。僕は、わりと外側から入るタイプなんで(笑)、「こういう人になれるといいな」と、映画監督にあこがれたんですね。
中学生のころというのは、実際、監督が何をする人かわからない。いまだに、監督はこうでなければならないというのはないんですけどね。映画の全体を仕切っていく感じなんだろうな、と思っていました。僕がいま、学長を務めている山形県の「東北芸術工科大学」は、アート・芸術系の大学で、音楽・美術・文学などいろいろなものを教えていますけれど、中学生のころの僕も、そうしたものに興味を持ってはいても、その何か一つに対して自分がずば抜けた才能があるとは思えなかったんです。そうした時に、「映画」はいろんな人が集まって、人をたぶらかせたらできるんじゃないかな、と思ったわけなんです(笑)。まあ、結局、本当にそういうことをやっているわけですけれども。それを思ったのが、最初ですね。
それからずっと、「どうやったら映画の世界に入れるかな」と考えていました。日本の映画監督の経歴を調べたら、当時は大学を出て、撮影所に入って、助監督から監督になっていたので、そういうことにあこがれていたら、どんどん日本映画が傾いていったんですね。その道筋は終わった、みたいな時代になっていきました。これからは、自主映画を作って、その中から映画やコマーシャルを撮るなり、別な形のスタッフをやりながら映画監督になる、という流れが、アメリカ映画を中心に世界的になり始めていたんです。しかし、たまたまそのころ日活の募集があったものですから、「チャンスかな」と思って参加したわけなんです。
和田/同じ時代に助監をしていた相米慎二さん(故人)。相米監督は、北海道をロケ舞台にした「魚影の群れ」や「風花」などがありますけれど、根岸監督は「雪に願うこと」一本なんですね。だから、あまり寒いところがお好きじゃないのかな、と思うんですけれど(笑)。この映画を撮るきっかけを、田辺さんに伺ってよろしいでしょうか。
田辺/はい。「雪に願うこと」の原作は「輓馬」という小説なんです。これは、「風花」という相米さんの遺作になった映画の原作者・鳴海章さんの作品なんですね。それで、鳴海さんの方から「次、こんな小説書いたよ」と、原作を送っていただいていました。相米さんはちょうど「風花」の上映が終わったころ、いろんな仕事が来まして、「やっと、監督として花開く、新たなスタートだな」という時だったので、次の作品はすでに「壬生義士伝」に決まっていて・・・実はわたし、「輓馬」をやりたいという話は相米さんからは直接聞いてないんです。でも、相米さんが亡くなって、四十九日の前くらいかな。和田さんがお手紙をくれたんですよね、私に。その中に、「生前、相米さんが『輓馬』をやりたいと言っていた」とありまして・・・。
和田/北海道を元気にするために「輓馬」という映画を撮りたい、と言っていました。それともうひとつ。田辺さんというプロデューサーにお金を一円も払ってないので、できれば一本分のお金を払いたい、と。
田辺/それまで、私に払うお金が安かったんですよね(笑)
和田/せめて、田辺さんにちゃんと払いたい、と言っていました。
田辺/そうなんです。そういうお手紙を和田さんからいただきました。わたしは、相米さんが亡くなったばかりで落ち込んでいて、もう映画の世界から足を洗おうかなと思っていたんですが、そのお手紙をいただいた時にすごい涙がボロボロ出てきて・・・「もうちょっと頑張れ」って言われているのかな、と思えたんです。それで、これは絶対に映画にするために頑張ろう!と。本当、和田さんのおかげなんです。
それから、「監督を誰に頼もうか」とお話していて、和田さんが「根岸さんしかいないんじゃない」っておっしゃっていて、私も「頼めるのは根岸さんしかいないよね」と思いました。それで原作を送って、根岸さんに監督をお願いしたんですけれど・・・根岸さん、こういう感じの方なので(笑)、本当にやってくださるのかどうかわからなくて、「興味ないのかな」とドキドキしてお返事を待っていたんです。
そしたら、「ばんえい競馬」というところに興味を持ってくださって、「じゃあちょっと見に行こうじゃないか」ということから、この企画は出発しました。丸3年、企画に時間がかかってしまったんですけれど、2005年にようやく撮影に入ることができました。その撮影も、3年かけて、ばんえい競馬の人たちと根岸さんが交流して、信頼関係を築いたからこそ、この映画が成立したと思います。
(つづく)