悪役が仏の顔にもどる時ーきょう映画ファンの集い「私の愛した悪役」

きょう18日(土)午後2時から、北の映像ミュージアムで映画ファン参加のトークイベント「私の愛した悪役」が開催されます。メンバーであるわたしも参加したかったのですが、同じ時間に別の場所でのイベントに出席することが先に決まっていました。そちららに行きます。残念です。会員、非会員問わず、振るってご参加ください。事前申し込み、入場料不要です。

そこで、悪役についての未整理のメモを残しておきます。

(文責・北の映像ミュージアム 喜多義憲)

わたし、人間に完全な善人も完全な悪人もいないと思っています。善人という定評を得ている人は、人に見せる顔の大部分が善であるだけ。どす黒いこころの闇を抱えて葛藤しながら、理性で悪人を抑える、または自然な振る舞いで善人を表に出し続けることができる人。

悪人は逆に、周囲に気兼ねなく悪人を振る舞える人間らしい人。しかしその人、実は100%悪人ではなく、うまく善を表現できない、悪を演じているほうが自然に振る舞えると信じきっている人かもしれません。

フツーの人はどうか--。たいてい、「善人ときどき悪人」あるいは「善人、ところによっては悪人」「善人あいてによっては悪人」ではないか。

善人から悪人へしょっちゅう豹変するひとのことを、モンゴルに住む私の友人は「黒だれそれ」、「白だれそれ」ーたとえば「黒キタ」「白キタ」と呼びます。

キタは今では、一日の大半は白キタで過ごしますが、ときどき黒キタに豹変します。修行が出来ていませんから。

脱線しましした。映画の話に戻ります。

スクリーンでは、「大体悪人、一時善人」、「一見悪人、実は善人」あるいは「悪人ときどき善人」が登場します。
SCAN0020▲「ジャコ萬と鉄」(1964年公開)のジャコ萬を演じる丹波哲郎
たとえば-。
「ジャコ萬と鉄」のジャコ萬(谷口千吉作品では月形龍之介、深作欣二版は丹波哲郎)、馬喰一代の高利貸し(名前は失念、志村喬)、イタリア映画「道」のザンパーノ(アンソニー・クイン)。

おもいっきり悪役を演じて主役をいじめぬき、嫌われ、最後に深い人間性を見せる。これですねえ。

マカロニ・ウエスタン「夕陽のガンマン」のダグラス・モーティマー大佐(リー・バン・クリーフ)は善人の顔を憶えていないが、なぜか鮮明に記憶に残っています。

リーバンクリーフ  ▲夕陽のガンマン」(1965年)のリー・バン・クリーフ

悪人が映画のなかで手一杯悪人を演じて、最後に崇高な善人の笑顔を垣間見せることがある。そのまま長く善人ヅラを晒すと、見ている方が辛くなる、気持悪くなる。ほんの一瞬でよい。キリストのような善を見せ、思い出を残して去っていく(死んでもよい)。

これがその作品を永遠の名画にし、主役を名優に引き立てる大きな要素になっている。

映画は光と影が綾なす総合芸術。人間社会も光と影の彩なす世界。映画はおどろおどろしい人間社会の映(移)し絵。

コメントは受け付けていません。